松本順 (松本良順)について

松本順 (旧名は、良順)

 

佐倉藩医の佐藤泰然の次男として、江戸麻布(東京都港区麻布台1)に生まれる。
天保3年(1832)6月16日‐明治40年(1907)3月12日 76歳
幕府将軍侍医、西洋医学所頭取。
維新後は、初代陸軍軍医総監、貴族院議員をつとめた。


1850年、幕府医官の松本良甫(りょうほ)の養子となる。1857年、幕命で長崎へ赴き、オランダ軍医ポンペの助手として日本初の系統的かつ近代的医学教育の実施に協力、日本初の西洋式公立病院・長崎養生所の開設にも尽力している。

 

1862年、江戸に戻り、西洋医学所頭取助と奥医師(江戸幕府の医官)を兼務する。翌年には医学所の頭取となる。1866年、大坂に出陣していた十四代将徳川家茂の病状が悪化、家茂から常に近侍するように求められ治療にあたるも、その甲斐なく家茂は死去。大坂城で家茂の最期を看取った。

この頃、会津藩の下、幕末、京都の治安維持にあたった西本願寺の新選組屯所に招かれ、隊士の回診を行っているほか、局長近藤勇、副長土方歳三、沖田総司らとも個人的な親交があったといわれている。

 

明治1年(1868)戊辰戦争では幕軍に参加、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津城内に野戦病院を開設。戦傷病者の治療にあたった。そのため戦後は新政府に捕らえられ一時投獄、禁固の身となる。

 

明治2年(1869)に釈放され早稲田に私立病院・蘭疇医院を建設、教育と診療にあたった。明治4年(1871)山県有朋らのすすめもあり兵都省に出仕、陸軍最初の軍医頭となり陸軍軍医部を編制、明治6年(1873)初代陸軍軍医総監に就任し、日本の陸軍軍医制度を確立した。

 

 

軍医学は公衆衛生学的考え方を基盤にしていたので、民間には公衆衛生的啓蒙を行い、『養生法』『通俗衛生小言』などを著わす一方で、牛乳の飲用、海水浴を奨励した。長野県湯田中温泉においては、温泉入浴法を示している。

日本では明治に入っても海水浴の風習はなかったが、その医療効果を説き、積極的に奨励した。明治18年(1885)良順の提唱で神奈川県大磯の照ケ崎海岸に海水浴湯が聞かれた。医学界の最高権威者が海水浴をすすめたことで、一気に海水浴が一般に広まった。大磯は、日本の海水浴場発祥の地といわれている。

 

明治21年(1888)に柏崎を訪れた松本順は海水浴の効用を地元医師らに提唱している。それからほどなく、北越鉄道が発足し明治35年に鯨波海岸に停車場ができると、周辺に旅館やホテルが開業し、長岡や新潟からも多くの海水浴客が訪れるようになった。

 

 

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